七葉窟 ラージギル


仏滅後、釈尊の言葉を残すため、弟子が集まって結集が行われました
ここが、第一回の結集が行われた七葉窟(しちようくつ)です

洞窟が7つ並んでいるので名づけられました


奥行きが6kmあると言われてますが、中は真っ暗で危険ですから、奥まで入ったことはありません
今回、入口から少し中に入ってみましたら、ななんと真っ暗闇で、ヨーロッパ系の人が坐禅をしていました
熱心と言うか、不気味と言うか
とにかく、日本人には無い根性です

第一結集の時、釈尊の弟子のうち、悟りを開いた者だけしか呼ばれませんでした
釈尊の従者をしていたアーナンダは、最初、悟りを開いていないということで呼ばれませんでした
せっかく、ずっとつき従って、多聞第一と言われたのに、除外されたのです
ですが、それから、奮起して修業して悟りを開き、結集に呼んでもらえました

お経は必ず「如是我聞」(かくのごとく、われきけり)で始まりますが、結集では、聞いた言葉の統一をしました
教義の整理とか、少数意見の排除とか、しません
キリスト教の公会議とは全く違います

釈尊も、生まれてから、修業して悟りを開きましたが、アーナンダも、全ての仏弟子も、修業をしてから悟りを開きます
生まれたまんまで、出来上がっている、というのは仏教ではありません
やはり、知恵で自分の心を観察することが、絶対に必要だということでしょう

釈尊の当時、どえらい霊能者や超能力者がいましたが、それは、走るのが早い、歌が上手、とかと同じ能力差です
どんなに人と違う能力があっても、自分の心を知らなければ、ただの人です
 
 能力の有る無しや、行為の善し悪し、など、つまりは現世の浮き沈みであって、「悟り」と直接関係ありません

どのように「走るのか」
どのように「歌うのか」
どのように「霊能力を使うのか」
どのように「超能力を使うのか」
が、問題であって、それは自分の心の根源を知っているのといないのとでは全く違います

どれほど多聞第一であっても、心の根源を知らなければ、結集には呼んでもらえないのです

生まれたまんまでは、釈尊ですら、「悟り」は理解できない、ということなのでしょう



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